カタログ「Art Program OME2010 8th」刊行
2011年5月11日 カテゴリー:お知らせ
昨秋、青梅市で開催された〈アートプログラム青梅2010「循環の体」展〉
2010年 10月30日(土)〜11月28日(日)
カタログA4、全80ページ刊行。
母袋俊也(絵画専攻領域教授)
「風景にみる視線の双方向性 KY OB AS HI-OHME」
絵画を考えようとする時、視線の双方向性、絵と眼差しとの関係は、僕のなかでその重要性をますます強くしてきているように思える。それは絵画が果たそうとする使命を考えることにほかならない。
僕が視線の双方向性について初めて意識したのは87年のロシアでのイコン体験であった。
教会内では、乏しい光のもとイコン壁を前に老婦が立ち、そこに描かれた聖人たちに視線を注いでいた。その姿は同時に静謐のなか多くの聖人に見守られているかのようにも思えたのだった。そこには見、見られる関係、視線の双方向性があり、絵画からの視線、絵画の果たすべき役割があるように思えたのでした。
実は、そのような見、見守られる関係を僕は風景にも強く感じることがあるのです。
03年、妻有で制作した《絵画のための見晴らし小屋》の窓は越後三山の稜線を切り取ったものだった。そもそも「風景」とはデカルト的明晰な眼によって秩序づけられ形成される。すまわち対象、世界はわれわれの視線の束によって捉えられているというのである。しかし有史以前からそこにあったのであり、後に人々は盆地の内側にあって、生を営んできた。
それは、山を見ながら、そして山々に見守られての暮らしであった。
デカルト的に言えば、その視線により対象を秩序づけ風景を生成、支配するかにみえる人は、実はその対象である山に見られることをとおして生き、存在を顕かにするのである。
そこに絵の使命を風景の中にも見出すのである。それが僕の風景を描くテーマの一つの理由でもあるのである。
今回出品した《M377 TA・KY OB AS HI》は、風景を手掛かりに障屏画をモデルに展開している”TA”系に属する。08年、京橋のINAXギャラリーの展示むけ想念上の関東平野をモデルに画面水平戦上部には平野西部の多摩の山々の稜線が描かれていた。
期せずして今回、その多摩地区、青梅は青梅市立美術館に作品は移され、日本画展示ケース内への展示が試みられ、京橋方面と対面する機会を得た。画面内に描かれた想念上の関東平野の水平性は京橋、青梅、2箇所の展示を経て画面を貫き大きく延長、東と西を接続させ、内側に立つわれわれとの対面を果たしたかに見える。
2010,12 母袋俊也
白井忠俊(1996年 絵画専攻卒業)
想像してもらいたい。
例えば、長大な画巻である横山大観《生成流転》そしてやまと絵の名品《日月山水図屏風》を描かれた内容のみを重視し、絵画形成をゼロベースに設定してみる。例えば、短形であること、絵巻物であること、屏風であることをゼロにしてみる。
《生成流転》を始まりと終わりを繋ぎ合わせ円筒状態に展示する。
《日月山水図屏風》を蛇腹折りでなく、12面体の円筒にして展示する。
どうだろうか?円筒の状態であるほうが自然ではないだろうか。なぜなら、どちらにも東洋哲学がもつ、循環や輪廻が作品内容に含まれているからではないか。
人類の歴史において円筒に絵を描くことは奇をてらった行為だろうか。縄文土器の円筒面は表現の場ではなかったのか。
いつの時代も人々は終末思想、末法思想に心ひかれる。”円筒絵画”は循環する時間制を発生させ、「終わらない」ことを実感させる。
私たちが「終わり」に囚われることから自由になれるかもしれない。
手前から
「何を知りたかったのか忘れてしまった」
「どんな答えを欲していたのか忘れてしまった」
「何を探しているのか忘れてしまった」
学生出品作家
滝川おりえ
藤原佳恵
大城夏紀
磯邉寛子
佐藤理恵
野坂紗智
榊貴美
佐藤賢
佐藤慎吾
(助手:真之介)