訃報 鷹見明彦氏 ご逝去
2011年4月1日 カテゴリー:お知らせ
訃報 鷹見明彦氏 ご逝去
つらい報告になります。
美術評論家 鷹見明彦さんが3月23日4時30分にお亡くなりになりました。
本学でもレクチャー、合評会などにゲストとして何回も係わっていただきました。
その都度、透徹した視点とともに、作品が社会、文化に対して果たしていく役割などアーティストとして生きる指針となる言葉をのこされ、後にアーティストとして活動を始めていく彼らに様々な面でおしまぬ支援をして下さいました。
その言葉はそれぞれの様々な分岐点で前に進もうとする彼らを勇気づけ、後押ししたことでしょう。
(2011年2月14日「Abflug2011-9つの飛行」展)
先月の2月14日も、母袋ゼミの卒展「Abflug2011-9つの飛行」展オープニングのギャラリートークにゲストとして、卒業を控える出品者にメッセージとエールを送って下さったばかりでした。
実は、氏が深刻な病の可能性があること、当日午後には受診の予約が取れ、診断如何では出席叶わないとのことは知らされていたのでした。ですからギャラリートークは別プランで準備していたところに、鷹見さんは来て下さったのでした。
当日、自宅近くの病院での受診の後、自宅への帰宅ではなく約束どおり僕らの待つ東長崎のギャラリーまで来て下さり、会場では普段と同様に静かに出品者一人一人から丁寧に聞き取りをし、作家としての心がけをメッセージに托し、そしていつものように気になった作品をカバンから取り出したインスタントカメラに収めていました。今になってしまえば、それはあるいは現像されることのなかった最後のカットになったのかもしれません。
トークの後、僕に「病院での決定的な告知、東大病院での再検査を告げられた」ことを伝え、降り始めた雪のなか画廊をあとにしたのでした。帰路、降りしきる雪のなか鷹見さんは何を見、何を考えていたのでしょうか。
その後まもなく前橋に移り闘病にはいったばかりのあまりにも早い訃報でした。
こうしているだけでも、数限りない記憶が蘇ってきます。僕の展覧会のほとんど全てを観ていた氏は僕の作品の導き人であり、作品の中枢的な存在である“TA”系の形成の立会人でもあり、その“TA”の命名にも鷹見さんの名は決して無縁ではなかった。まさに僕の作品の伴走者でもあり、僕が最初に書いた論文草稿時の第一番目の読者でもありました。
電話はいつも一時間をこえたのでしたが、その声を耳にすることはできません。筆圧の弱いあの細身の文字の手紙が届くこともなく、その更新は断たれてしまった。
彼はいつも遠いところ、高いところを見ていた。
11日に起きた大震災、その後も続く余震、収束を見ない原発問題、真実がどこにあるかがわからない情報、そしてその過剰反応のなか,日本は今揺れ続けている。
それは想定、予見することのできなかった学問、学究の根本に揺さぶりがかけられ、あらゆる専門性そして個人は問われ、それぞれの胆力は試されているかに見える。
地平から本の少し浮いた場にその「現出性」を求める絵画もまた揺れる大地からの遊離が故に、そして聖顔布が絵画の一つの起源であるように「救済」にその使命を持っていた美術の果たす役割は問われている。
常に美術の役割を求め、その力を信じていた鷹見さんが、今大きく揺れる地上にないことの辛さは計り知れない。
年賀状は毎回 空の写真でした。それはあのカメラで、氏が心動かされる空を目にした時に撮っていたものだったのでしょう。
そして今は、その空の人となってしまった鷹見さん。
現出の場の更に上方の人となった鷹見さん。
常に美術の可能性を信じ、若い作家の可能性を信じ、寄り添い支援した鷹見さん。
澄み切った清流のような鷹見さんだった。
空の人となった鷹見さん、
どうか今までのように見ていて下さい、高い空から。
僕らがこれからどのように応えていくかを、そして更新が断たれることのないことを。
(年賀状 2004年)
鷹見さん
安らかにお休みください。
心よりご冥福をお祈りいたします。
再度、有難うございました。
合掌。
2011.3.29 母袋俊也
追記
「鷹見明彦さんを偲ぶ会」(仮称)が計画されているとのことです。
日時、場所等確定した時点で本ブログにてお知らせする予定です。
卒業生、在校生で、鷹見さんへの想いのある方へ
造形大としてどのような形でできるか今の時点では定かではありませんが、
「鷹見さんへの想い」として、故人への想いのようなものを、みなさまからお受けしたいと思います。
想いのある方は、下記、東京造形大学絵画事務室までEmailにてお寄せください。
↓
kaiga@zokei.ac.jp
(助手:真之介)